2021年度第1回One Bridgeセミナーが開催されました

Event Date: 5.17.2021

2021年度第1回One Bridge セミナーがZoomのwebミーティングにて開催されました。今回はアムジェン株式会社 代表取締役社長スティーブ・スギノ氏をお招きし、「自分の道を創造する:人生 とキャリア」 ”Creating Your Own Path: Life and Career“と題してお話いただきました。
スギノ氏はL.A.で生まれ育った日系アメリカ人4世です。セミナーは、第1章:家族のストーリー、2章:私のストーリー、3章:あなたのストーリーと3部構成になりました。

第1章:家族のストーリー

日系1世にあたる曾祖父は沖縄より最初にアメリカに渡った日本人の1人でした。2世にあたるお祖父さんは1902年ハワイで生まれ、幼くして父を亡くし母と沖縄へ戻りますが生活は苦しく再び17歳で再び単身でハワイへ戻ったそうです。3年間教員をしてL.A.へ移り、同郷の日本人をたよりに日本食レストランでウェイターをしながら、夜間学校で英語や会計学を学び、新世界朝日新聞の記者となります。ロサンゼルスオリンピックでは選手のリポーターを務め、教員を経て日本語学校の校長になりました。結婚し家庭を持ちますが、1900年前半のアメリカはアジア人に対する差別や敵対心が強く、法的にも不当な扱いや隔離を受けます。第2次世界大戦が起こり、1941年12月7日の真珠湾攻撃で日米は交戦状態に突入しました。その日たまたま結婚式に参列していたお祖父さんや当時6歳のお母さんは、会場で多くのに日系人がFBIに連行されたのを目撃、さらにその夜自宅に戻ったお祖父さんもスパイ容疑でFBIに連行されます。幸い持病のため釈放されることになりましたが、遠くの刑務所に送られ長く拘留された知り合いもいたそうです。翌年、大統領令9066号が発令され、日系人は敵国の外国人として強制収容されます。財産は没収または盗まれ、醜悪な環境での生活を余儀なくされました。当時の新聞の見出しには差別的な言葉が並び、残された写真からも厳しい状況が伺えました。お祖父さんは消防団として働きますが、月給約1500円は当時の相場の2-3%だったそうです。

終戦後LAに戻ったお祖父さんは、厳しい差別の中、なんとか衣料工場での仕事を得ます。その後、保険業、不動産販売の資格を得て1950年には自分の会社を立ち上げます。その時々で出来ることを手がけ、1984年には日米でビジネスと教育に貢献した功績が認められ旭日章を受章されたそうです。1988年にロナルド・レーガン大統領が「1988年市民の自由法(通称、日系アメリカ人補償法)」に署名、これによりアメリカ政府は公式に日系人強制収容を謝罪し、2万ドルの補償金を日系人に支払いました。

このように大変な時代を生き抜いた祖父や母の人生を伝え聞いてスギノ氏が学んだことは次の3つだそうです。
1:教育:家など財産が取られても教育は残る

2:態度:逆境に耐える強さ。自由や選択への感謝

3:政治:法は正常時にのみ有効。戦時中は効かない

第2章:私のストーリー

祖父、親、自分と3世代にわたりロサンゼルスで過ごしたスギノファミリーでは、2世の祖父が起業で成功したといえ大企業には就職できなかった世代、ご両親が初めて大学に行った世代でした。3世のご両親は真面目で、薬剤師、エンジニア、教員など、安定した職業を選んだそうです。4世のスギノさんは中級家庭に生まれ不自由なく育ち、自分の将来が好きに決められる自由をとても感謝していると言います。

スギノ氏は1967年生まれ。アメリカは1970年代のオイルショックや急速なインフレによる経済低迷期で失業率も高く、戦争やテロリズムの恐怖もあった時代、大学に入る1985頃は悲観的な未来を描いていたそうです。カリフォルニア大学サンタバーバラ校ではアジア研究の学位を取得、勉強の他にクラブ活動やインターンやアルバイト等様々な経験を積みます。本の販売員、先輩や友人の親を頼ってウォールストリートで証券取引に携わったのは金融業界を知る貴重なきっかけとなりました。逆にアカデミックリサーチもして自分には向いていないと悟ったそうです。

1985-1990年と言えば、Japan as Number1と言われ、財閥、改善、系列など、世界が日本のビジネスについて学んだ時代でした。日本の経営者がTIME誌の表紙を飾り、日本のビジネス侵略が恐怖と言われた時代、スギノ氏は将来のある日本での就職を希望し大学4年次にICUの交換留学生として来日します。

日経平均のピークは1990年1月。1989年冬の就活時はまさにその頃で、1989年の企業時価総額世界のトップ20社に日本企業13社がランクイン、そのうち6社が銀行でした。スギノ氏は平成2年、当時最も一流と思われた東京銀行(現:東京三菱UFJグループ)に就職。東京銀行丸の内支店外国為替課で半年間務めます。女子だけの制服や、新人イベント、一発芸、社内運動会なるものがあり、その練習や女子によるチアダンス、支店長の勝敗へのこだわり等、特殊な日本の企業文化はカルチャーショックの連続だったそうです。

6か月後に本部の財務開発部へ異動、2年後には企業財務をという話だったのが、LA支店への転勤を命じられ5年間のリテールバンキング業務と聞き、やりたいことではないと退職を決意します。その後クレディ・スイス・ファースト・ボストン銀行に転職し、投資銀行部門で東京及びニューヨークに勤務。仕事のスピードが速く、給与も格段にアップし素晴らしい経験だったそうですが、週110-120時間という激務の日々は長く続かなかったそうです。ニューヨークシティマラソンの日、その人混みが何かも分からない自分に気づき、辞める決心をしたとのことでした。

その後はUCLAビジネススクールに通い、スタートアップゲノムの会社に就職、1998年イーライ・リリー社に入社し米国本社を拠点に中枢神経系薬剤のグローバル臨床研究の責任者などを歴任、日本のサノフィ入社後は、執行役員糖尿病ビジネスユニットヘッドを務め、2015年に米国バイオジェン社のアジア太平洋の最高責任者に就任。2017年にアムジェンに入社し、2020年より代表取締役に就任されています。常に自分の声を聴いて自分の人生を切り開いてきたとのことでした。

何が重要か、どのように決断するか、人生をどう生きるか、と考える際に非常に大事なものがバリュー(VALUE)である。それが何かというのは環境や世代によって異なるが、スギノ氏にとって「迷った時の北極星のように人生の道しるべとなるもの」で下記3つだそうです。
1hardworking勤勉さ
2honesty誠実さ、
3learninig学ぶ姿勢

そして大事にしていることとして下記3つが挙げられました。
1 一期一会
2 Comfortableである事
3 Intersection 交差点
出る杭は打たれる、という日本的考えがあるが、これは皆には当てはまらないこと、日本とアメリカ、薬とビジネス、テクノロジーと芸術、生物学と化学など、物事が交わるところには何か面白く価値あるものが生まれること多いと感じる等、持論を展開されました。

また、自分が会社の代表として人を雇用する際に求める人材は下記とのことでした。
1:Integrity誠実さ
2:courage勇気
3:Learning agility 迅速に学びとる力
4:Self-Awareness自己意識
5:Drive 意欲

3章 あなたのstory

1,2章につづく3章はあなた(参加者それぞれ)のストーリーでした。

あなたのvalueは何ですか?明確ですか?どれほど家族のストーリーを知っていますか?機会があれば聞いた方が良いし、そして自分のストーリーはどうなって欲しいのか、それを実現するためにあなたは今何をしているか?と考えることが大事だそうです。自分の未来は自分で創るもの、自分で探すしかなく、様々なチャレンジを経て、自分のやりたい楽しめることを自分で見つけてくださいとのお話でした。

スギノ氏のファミリーヒストリー、そしてご自分の半生を振り返ってのお話は非常にドラマチックで、ドキュメンタリー映画を見ているかのようでした。日系移民の戦時中の現実や戦後の苦労を改めて知り、グローバル社会でマイノリティが生きる難しさについて考える機会となりました。大学生活や就職・転職の経験談、その時々の考え方の紹介は、今から社会に出ていく学生の参考となり刺激的でもあったようです。自分を奮い立たせるきっかけになった、自分のストーリーについても今後真剣に考えていきたい、等の感想が聞かれました。